2012.04.10
カテゴリ:
グループ・スーパービジョン・セッション
25~30年くらい前だろうか、学生時代だったか実践に入ってからだったか、「理想と現実の違い」、「理念と現実の乖離」という言葉を頻繁に耳にした。
学んでいたのは「理想を持って、常に現実的に」とか「理想を現実化するのが専門職」とかだったので、僕にはよくわからない話だった。
「現場では専門知識など役に立たない」という意味だった。なまじ勉強してくると理屈ばっかりで頭でっかちになるとか。
でも僕の実践では、逆に、学生時代やその後に培った価値・知識・技術の体系無しの仕事の展開は、考えられないことだった。
つたないながらSWの存在と関係性、コミュニケーション、クライエントへのアプローチ方法を巡って、繰り返し議論していた学生時代でさえ、心理学や社会心理学の知識も含めて、「知は力なり」みたいなことを実感していた。
一方で「社会福祉」が掲げる人間の尊厳、個人の尊重は、バイト先から学生サークルにだって、「普通には存在しないこと」を知っていた。だからこそ、それを擁護し実現するため、意志強固にしてかつ巧妙な技術者になろうとした。人と環境の両者に働きかけ、その接点から変化をもたらす・・。
この歩みは、恩師のスーパービジョンに始まり、数々の出会いと相互研鑽の反復で、30年以上経た現在まで「長く曲がりくねった」営みになっている。
それなので、とにかく無防備に、この世界に飛び込んでくる皆さんには、結構驚かされる。実際、腰を抜かさんばかりの驚愕をかろうじて必死に表に出さないようにしている。
ナイーヴな同士が、互いに内面の不安を感じないように、ひきつった力の入った笑顔で精一杯盛り上げて、現実逃避をする姿には、苦渋に似た複雑な気分にさせられる。リアリティーに乏しいので、個々人が抱える葛藤の内圧が昂じれば、やがて話すことも面倒になり、心の余裕もないので互いの存在が疎ましくなる。
こんなことは、初歩的な自己覚知と自己統御と自己開示能力で回避できる。
これができてピア・スーパービジョンでしょう。これらの初歩的な技術を使えないどころか、きょとんとされる。最初は言葉が古すぎるのかとも思ったが、最近の教科書に載っている言葉を使っても反応は同じだ。
彼らが身に着けるべく取組んだ「対人援助技術」は実技でなく教養であり、その成果は理解ではなく、言葉や説明の「記憶」だったようだ。(昌)